[書評]イノベーションを起こすには国の役割を過小評価してはいけないという点はうなずけるけど…サセックス大学教授の著書『企業家としての国家』

■読んだ本

マリアナ・マッツカート(著)=大村昭人(訳)『企業家としての国家-イノベーション力で官は民に劣るという神話-』薬事日報社.

イノベーション政策に大きな影響を与えている学者として紹介されており、発行からわずか2年で600件近い被引用を集めている(Google Scholarによる)書籍。視点は面白いのですが、根拠が弱く、極端に政府の役割を過小評価することの戒めにはなっても、政策的示唆は限定的であると感じた。

★1つ(最大3つ)。

 

■本書の要旨

イノベーションに関しては米国の成功が注目され、民間、とりわけ小企業とベンチャーキャピタルの役割が大きく、国の役割は最小限であるべきだ、そのために規制緩和と減税をすべきだという議論が、マスメディア(例:Economist誌)や産業界保守層から出されている。しかし、この認識は正しいのだろうか、という疑問から本書を組み立てている。

 

本書は、この疑問に対して3つの事例を提供している。

  1. 第一に、iPhone、iPodを取り上げ、スマートフォンを実現させた基盤技術(CPU、インターネット、液晶ディスプレイ、無線通信)と、iPhone、iPodの差別化の源泉となっている技術(マルチタッチ、音声認識)(注1)のいずれもが、国(とくにNSFやDARPAなど米国の研究開発機関)が支援した技術によって成り立っていると指摘し、イノベーションの多くが国の長期的な支援があったからこそ成りたった技術に基づいていると議論している。しかもそのような技術の開発の初期段階では民間の資金が流れ込んでいなかったとも述べている。
  2. 第二に、製薬産業を取り上げ、近年、創薬メーカーの多くが国の研究開発投資の成果を買収することで成長しており、自身の研究開発はむしろ減らしていることを指摘し、民間にイノベーションの主導権を委ねることが研究開発の活性化に繋がっていないと批判している。
  3. 第三に、クリーンエネルギー(再生可能エネルギー)産業を取り上げ、太陽光発電や風力発電については、技術開発だけでなく事業化にも国の支援制度が大きく寄与していることを、2つの事例から指摘した。一つは、1980年代にカリフォルニア州が新エネルギーへの支援をやめたことが、アメリカ発の技術を活かした米国企業が支援制度を維持し続けたドイツで事業化し成功するきっかけになったとの事例であり、もう一つは近年の中国での政府の支援を受けた太陽光発電事業の急速な拡大の事例である。また、同時にこれらの事例では国の支援があった企業とベンチャーキャピタルの支援があった企業では、後者、ベンチャーキャピタルの支援は短期的な視野で引き上げられていることが見られており、国に比べるとベンチャーキャピタルはリスクを取らない傾向があると指摘している。

 

これらの事例から、長期的な視野が必要な領域を中心に、技術開発においても事業化においても国の役割が大きいことを議論している。また、1980年代、国が主導することで半導体や太陽光発電分野で成功した日本の例を傍証として取り上げている。

 

このように、イノベーションに対する国の貢献の大きさを確認した後、現在の民間企業はその収益を国に還流していないことを次の3つの事実を論拠に批判している。

  1. 第一に、Appleを筆頭に、自国外での生産に特化して米国での雇用に寄与していない傾向がある。
  2. 第二に、タックスヘイブン等を活用して、自国に税を通じて十分な貢献を行っていない傾向がある。
  3. 第三に、製薬産業を中心として、政府の研究開発成果である特許を直接利用している産業ですら、利益のごくわずかを特許料として国に還流させているにとどまっている。

 

この結果、本来、国によって促されるはずの新たなイノベーションの発生の可能性を損なっていると論じている。しかも、経営トップ層の報酬と従業員の報酬の乖離を拡大させているなど、社会の発展にも悪影響を与えていると批判している。著者はリスクをとっている者に適切なリターンが生じておらず、リスクを取った成果を事後的に活用した者に過大な報酬が発生していることを強く批判している。

 

このような問題点を解決するため、著者は次の施策を提案している。

・成果の知的財産権の実施料(ロイヤリティ)の引き上げとその基金化

・事業支援を投資として行い、売り上げに応じた返済を行わせるメカニズム

 

また、その基盤として政府のイノベーションに対する役割を認識し、必要な役割を担う部分については人と資源が集まるようにするべきであるとも述べている。とくに再生可能エネルギーに関しては主体性を発揮する重要性を説いている。

 

(注1)著者は両者を区別せず論じているが、おかしい。前者(基盤技術)を利用しているのは、それを使わなければならなかったり(無線技術)、さもなければ基盤技術だからこそコストが安い(液晶ディスプレイ)からと考えるべきである。

 

■書評

長期的な視点を持った研究開発と事業化に国の果たしてきた役割が大きいことは確認できる。イノベーション政策の議論の際に忘れてはいけない視点だということが本書から伝わってくる。

 

だが、本書が、国の役割が大きいのだ、国こそが長期的なリスクをとっているのだと主張する割に、再生可能エネルギー分野を除くと、「国がイノベーションを企画し主導すべきだ」という政策的含意を提言していないことには注意が必要である(注2)。

 

その理由は、本書の論旨の一つである「技術開発においても事業化においても国の役割が大きい」という主張を支える論拠が弱いところにあると考えられる。著者は「イノベーションの事例を見たところ、国の関与が大きい事例だった」ということは立証できているが、これだと「イノベーションの構成要素に、国の研究成果を利用した方が有利なだけだった(本当は民間の成果を使っても良かったがコストや規制が障害となり利用しなかった)」「イノベーションとして成功しそうな事例にはすべて国が介入して資金をだしていただけだった」「イノベーションの候補として複数の候補がいた中で、国の関与によって半ば強制的に選択されてしまった」という反論は排除できない。本来であれば「国が関与した事例と、国が関与しなかった(国の関与が小さかった)事例を比べたら前者のほうがイノベーションとして成功した確率が高かった、または、成果のインパクトが大きかった」ということを証明する必要があった。しかし、国の関与が小さかった事例はほとんどなく、比較に適したものはなかったのだろう。だから前者の立証にとどまったのではないか。

 

つまり、本書の論旨の第一は、国の関与が有効だったのか、それとも、国が関与しすぎてあらゆるところに影響を与えていただけなのかが全く区別をつけられないまま、前者(国の関与が有効だった)と推測しているだけに過ぎないのである。しかも、論旨の第二である、国がリスクをとっているのにリターンが国の成果の利用者に偏っているという主張を考えると、後者(国が関与しすぎていてあらゆる成果に国が関わっている)という解釈が正しいのではないかと考えさせられる。関与しすぎているために、イノベーションのシーズが溢れており、事業化までの最後のつなぎ役であるベンチャーキャピタルや一部の民間企業の貢献の価値が過剰に高まっているという可能性があるのではないか。

 

ただ、証明が不十分とはいえ、長期的視点の必要なテーマやハイリスクなテーマの研究開発を国が支援することの意義については反論はほとんどないと思われる。そうすると結局のところ、本書の政策的含意として有効なものは、「国が長期的視点・ハイリスクの研究開発を支援する資金が尽きないよう、イノベーションの成果が生み出した付加価値の一部を次の投資に回せる仕組みを用意すべきである」との主張になる。その意味では本書の行う施策提言の一つ目(成果の知的財産権の実施料の引き上げとその基金化)は適切である。とくに「国」の枠に注目するならば、国内実施部分と国外実施部分のロイヤリティに差を付けるのも手だろう。ただし、デジタルな成果については実施の場所はあまり関係ないので、雇用の量で判断するべきかもしれない。また、そもそも長期の研究開発が必要なものについては成果の知的財産権の保護が満了してから事業化になるものもあるので、期待したほどの規模にはならないかもしれない。

 

このように、本書の貢献は次の2つにとどまっていると理解できる。

・知識経済化では知識創出に対する国の投資は重要だが、成果が国の枠を超えて広がってしまっているので、次の投資をどう正当化するかという1980年代から続く問題について改めて確認している。

・マスメディア等で過剰に政府の役割を小さく評価しているものがあるので、戒めている。

 

なお、この本は経済学者でも、科学論の研究者でもなく、医学部の先生が訳されているので、訳があまり良くない。この点も課題。

 

(注2)第2章で日本の1980年代の通産省の国プロを肯定的に取り上げてはいるが、第9章、第10章の結論では取り上げられていない。